モーツァルトの墓都市の人口問題
ウィーン


このページでは、出典となるWeb上の資料に、出来るだけリンクを作りました。ページを通読頂いた、お楽しみ頂ければ幸いです。(wiki とある場合は、通常のWikipediaと 地域Wikipediaのザルツブルクwiki が混在し、言語も日本語、英語、ドイツ語版などが混在します)

コロナ渦

コロナ渦の中、つい先頃まで元気だった人が、入院したと思いきや、急に重篤化し、家族が付き添いも出来ないまま死を迎え、ましてや火葬までされて、骨壺に入って帰ってくるといった事態が、最近まで、日本でも日常的に起こっていた。

ペストとの闘い

1985年の、作曲家モーツァルト(1756-1791)を描いた映画「アマデウス」では、麻袋に入れられたモーツァルトの遺体が、繰り返し使用可能な棺桶で運ばれ、多人数用の墓穴に、麻袋の遺体だけが投げ入れられるシーンがラストだった。ショッキングな映像だった。

墓地の場面
DVD「アマデウス」1985年

1784年、当時の神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790)は、ペストを含む伝染病対策のため、ウィーンを囲む城壁内での埋葬を禁止し、城壁の外にあった墓も撤去して、郊外に5つの共同墓地を作った。

発布された法令によると 「全ての遺体は衣服を着けず麻袋に入れ、棺桶には入れず埋葬されなければならない」 だった。限られた面積の墓地を有効利用するために、遺体の分解を早める目的だった。さらに葬儀の簡素化に向けて、細かい規定を作り、教会にリサイクル棺桶の設置を義務づけた。

表向きは防疫であり、当時の狭いウィーン城壁内で増え続ける人口問題と、悪化する衛生環境への対処でもあった。この時、ウィーン城壁内の人口は5万人ほど、ウィーン全域では22万人ほどだった。1. ウィーンの人口(ウィーン市)  2. リーニエンバル

しかし、この改革は激しい反発を招き、5ヶ月後には「棺桶を使用しても良い」に撤回されることになったが、他の規則は残った。

モーツァルトの死はそれから7年後のことだった。

余話ヨーゼフ二世の「棺なし埋葬義務」の
撤回命令書(部分)

誰もが棺に埋葬されることが許されています。 というのは、遺体を棺に入れずに亜麻布の袋に入れ、全裸で衣服も縫い付けずに埋葬するという有益な命令のせいで、多くの人々が心を悩ませており、偏見から遺体と棺を一緒に埋葬することが好まれていることに陛下が気づいたからである。…………

Michael Lorenz 氏のブログより、google自動翻訳

モーツァルトの葬儀について: 当時の埋葬については、2013年に Michael Lorenz 氏が モーツァルトが受けた3等級の葬儀について、他の3等級葬儀者の資料も含めて「モーツァルトと再利用可能な棺の神話」としてブログで論じている。 Michael Lorenz 氏のブログ

拙速な改革 ヨーゼフ二世

皇帝ヨーゼフ二世は、1765年から共同統治していた母親のマリア・テレジアが1780年に亡くなると、それまで穏便に進めていた行政改革を急速に進めた。

ヨーゼフ二世
ヨーゼフ二世

プロテスタントやユダヤ教、ギリシャ正教などカトリック以外の宗教への寛容政策や、制限されていたユダヤ人の権利拡張、農奴の開放政策など、矢継ぎ早に打ち出し、同時に、多数の教会や修道院を強制的に廃止した。

啓蒙主義の皇帝として、人口問題、宗教の寛容、農奴の解放、ユダヤ人の……今日から見れば「いいこと」のように見える政策だが、強権的で性急なスタイルが反発を呼んで、修正を余儀なくされたのは「棺桶問題」がほんの一例だった。

ヨーゼフ2世の在位は1780~1790年と、その死によって長くは続かず、急進な改革が頓挫することになり、後継者によって改革が反故にされたり、元の姿に復帰されたりしたが、その影響は後世まで残った。 ジョゼフィニズムwiki

モーツァルトの墓 ザンクト・マルクス墓地

モーツァルトが葬られた墓所は、郊外に新しく作られた五つのうちの一つザンクト・マルクス墓地(St. Marxer Friedhof)でした。目印も墓石もなく 「埋葬後10年経てば、掘り返して『整理』し、新たな遺体を埋葬する」 制度のため、モーツァルトの墓の位置は分からなくなっていた。

しかし1791年のモーツァルト没後、名声は次第に高くなり、没後50年を期した1841年には、モーツァルトの生地・ザルツブルクでモーツァルティウムが作られ、銅像も建立された。 初期モーツァルティウムwiki

モーツァルトの銅像 
モーツァルトの銅像
1842年9月

マルクス墓地 Wiki マルクス墓地についてwiki ザンクト・マルクス墓地(ウィーン市のページ

そしてウィーンの役所には『モーツァルトの墓はどこだ』という問い合わせが頻繁に届くようになり、ウィーンも重い腰を上げた。

モーツァルト生誕100年の1856年、ウィーンは一大調査の結果、聖マルクス墓地内に「最も高い確率でここ」という場所を特定し、そこに記念の石碑を建てた。

しかし、話はそこで終わらなかった。

もオーツァルト顕彰の石碑
記念の石碑
現在はウィーン中央墓地に移設

ベートーヴェンが客寄せパンダ 名誉の墓

ウィーンの人口はさらに増大し、19世紀の中頃には50万人をはるかに超え100万、増加具合から200万人の壁も見えていた。

1874年、90年前の五つの共同墓地では手狭になり、5つの墓を廃止して、ザンクト・マルクス墓地よりも2倍の距離の郊外に広大な土地を確保して、ウィーン中央墓地wikiとしました。

しかし、ウィーン中央墓地は墓参に遠く、今日では墓所内にバスが通る広大さ、未完成で植物も育っていない上、施設も完成が遅れて、評判は散々だった。そこで7年後までに鉄道を建設し、中央墓地付近に最寄り駅を作り、かつ名誉の墓wikiを作って人寄せを図った。

すなわち有名人の墓地を集めて、観光地化しようという計画だ。音楽家では、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウス、蒼々たる顔ぶれの著名人の墓を集めた。

有名人の墓は、廃止予定の五つの墓から集められた。

ウィーン中央墓地のモーツァルトの石碑とベートーヴェンの墓
モーツァルトの記念碑(右)と
メトロノーム型のベートーヴェンの墓
by wikipedia

さらに、モーツァルト没後100年の1891年、ザンクト・マルクス墓地に折角建てられていたモーツァルト顕彰の石碑を、中央墓地の音楽家の墓が並ぶ区域に持って行ってしまった。

ザンクト・マルクス墓地も廃止されて公園になる予定だった。

ウィーン中央墓地Webサイト

守られたモーツァルトの墓所

ザンクト・マルクス墓地のモーツァルトが埋葬された地点は、後日、墓の管理人の計らいで、周囲の使われていない墓の材料を集めて、モーツァルトの石碑があった場所に置き、「モーツァルトが葬られた場所」の目印にした。以下に1905年の写真がある。

マルクス墓地の1905年の写真
1905 年頃のポストカードに描かれたモーツァルトの墓出典のページ

そして、その写真を拡大してみると、「嘆く天使」の姿があり、現在の墓碑の原型がある。

1905年 モーツァルトの墓 拡大
1905年の画像を拡大

さらに1931年のドイツの新聞(Neuigkeits-Welt-Blatt)には次の写真が掲載されている。墓碑に折れたポールが追加されて、現在の姿になっている。

マルクス墓地の1931年の写真
Neuigkeits-Welt-Blatt 新聞
1931年7月25日:出典

そして一般の郷土史家・中学教師のハンス・ペマー wiki(1886-1972)が熱心にモーツァルトの墓地保存の重要性を訴え、運動の結果、1937年ついに、5つの旧墓地ではただ一カ所、ザンクト・マルクス墓地を、墓地の形態を残したまま公園として保存することに決定した。

現在のマルクス墓地の墓

第二次大戦で破壊を受けた、モーツァルトの墓は、ハンス・ペマーらの手によって修復され、現在の姿になった。「墓の管理人が使われていない石像を集めて、取りあえず作った墓碑」、その造形の不完全さも含めて、その素朴さが残されている。

現在の国際モーツァルティウム財団、またはモーツァルティウム財団Webサイト 国際モーツァルト財団wiki

ザンクト・マルクス墓地の地図 google map ザンクト・マルクス墓地 ストリートビュー

たび こふれ 画像出典




附録1.ウィーンの旧市街とリーニエンバル

上の地図は、現在のウィーン全域である。中央の赤い部分が、旧市街地。周囲を城壁で囲まれ、ここに1683年にトルコ軍の大攻勢(第二次ウィーン包囲)があったが、撃退し、1704年にリーニエンバル(liniewall[線の壁」と呼ばれる、軽装備の防壁を作った。黄色の線である。

上の赤い星がベートーヴェンの墓があったヴェーリング墓地、モーツァルトが葬られた聖マルクス墓地は、リーニエンバル内の南端と言うことになる。ウィーン中央墓地は1874年に作られた。

なお、「国際モーツァルティウム財団」の「モーツァルトの手紙と資料」には、「モーツァルトの死亡証明書」の写しが存在し、「聖マルクス墓地に埋葬」した旨が書かれている。

モーツァルトの死亡証明書
出典

附録.2 モーツァルト一家の墓? コンスタンツェの墓

上記の、1931年の新聞(Neuigkeits-Welt-Blatt)の同じ紙面に、聖セバスチャン墓地wikiにあるモーツァルトの未亡人、コンスタンツェの墓の写真(中央)がある。裏側にコンスタンツェの2番目の夫、ゲオルク・ニッセンの名前があるはずである。

1940年頃の別の写真では、右側の墓の前にある石版の文字がかすかに読めるが、太字部分は以下のように読める。

不明

LEOPOLD MOZART
(レオポルト・モーツァルト)

不明

GENOVEFA WEBER
(ジェノベファ・ウェーバー)

不明

KARL MARIA von WEBER
(カール・マリア・フォン・ウェーバー)

不明

モーツァルトの父親LEOPOLD MOZART wikiの下のGENOVEFA WEBER wiki はコンスタンツェの叔母だが、大作曲家 KARL MARIA von WEBER wiki の母親でもある。そこを強調した言葉が並んでいるようである。

撮影時期が違う別の写真が存在するが、LEOPOLDの名を記した銘板は、書き換えられているようである(文字は読めないが、文字の位置が違う)。

ドイツ語wikiセバスチャン墓地によれば、「注記と参考文献」の4.に「1898年4月8日レオポルトの墓が見つかった」とあり、「ウェーバー母との墓碑銘は、1960年にモーツァルティウム財団に保管された」とある。

対で映っている左の墓は、現在でも隣に存在し、「他人の墓」である。現在は二つの墓の間には、少し距離がある。

画像の出典:聖セバスティアン墓地で120年ぶりに埋葬が再び可能に 2014 年 6 月 11 日

「コンスタンツェの墓」は、現在は「モーツァルト家の墓」と認識されているが、コンスタンツェ没後20年の、1862年にヨハン・エバンゲリスト・エングル(Johann Evangelist Engl 1835-1921)wikiによって作られた、「展示用の墓」だとされている。