恋の歌からよろこびの歌へ
ベートーヴェン
「合唱幻想曲」
記念すべきコンサート
1808年12月22日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場におけるコンサートは、全ベートーヴェン作品、交響曲 第5番、第6番、さらにピアノ協奏曲 第4番が同時初演されるなど、後世にとっては記念すべきコンサートとなった。[1]
しかしこの日は寒く客の入りも悪く、なにより他のイベントと重なって、充分な演奏者を揃えることが出来ず、演奏もリハーサル不足で散々なものになったと伝えられる。
このページでは、このコンサートの最後に演奏され、第九の先駆け的作品ともされる、「合唱幻想曲 op.80」と初期の歌曲 WoO118 との関係についてご紹介。
奇妙な楽器編成 合唱幻想曲
このコンサートの最後に演奏されたのが「合唱幻想曲 作品80」だった。
この曲は奇妙な楽器編成の作品である。ピアノ独奏とオーケストラ、6人の独唱者と混声四部の合唱団を必要とするうえに、大きな編成の割に、演奏時間20分という「小曲」である。
今日的視点からすれば、演奏者や会場費などコンサート開催のための経費と、聴衆からの収入のバランスがとれないとコンサートが成り立たない。当時であっても、プログラムするには困難を来すであろう。
事実、今日でも「(この楽器編成のせいで)演奏される機会が非常に少ない」と解説されている。
始めに楽器編成ありき
しかし、この曲が12月22日のコンサートで演奏されたと言うことを知り、当日のプログラムを見れば、「奇妙な楽器編成」の理由は、合点がいく。
1808年12月22日のプログラム
のマークはyoutube で演奏を検索。曲名のリンクはは日本語Wikipediaへ
- 交響曲 第6番 「田園」 作品68(初演)
- 『ああ、不実なる人よ』作品65
- ソプラノ独唱と管弦楽のためのアリア
- 『ミサ曲 ハ長調』作品86より 「グローリア」
- 4人の独唱者、合唱と管弦楽
- ピアノ協奏曲 第4番 作品58(初演)
- 交響曲 第5番 作品67(初演)
- 『ミサ曲 ハ長調』作品86より「サンクトゥス」
- 即興による幻想曲 ピアノ独奏
- 『合唱幻想曲』作品80(初演)
- ピアノ独奏、管弦楽、独奏者6人(ソプラノ2、アルト、テナー2、バス)、合唱
第2部
当日は午後6時半から10時半まで4時間に及ぶ大コンサートであった。
プログラムを見れば7曲までで、ピアノ、オーケストラ、独奏者、合唱団がそろっていて(ただしテノール独唱一人が足りない)、ベートーヴェンは4時間の大コンサートの最後に、当日参加の演奏者全員で大団円を描こうとしたのであろう事が想像できる。この曲は、「始めに楽器編成ありき」で作曲されたのだ。
コンサートのための準備中に作曲を始め、ベートーヴェンとしては異例の2週間という短期間で完成を見た。ピアノの独奏部分は、自身が演奏するため記譜されず即興で演奏された。
演奏者達は「(インクの乾いていない)湿った楽譜」を渡され、リハーサルもおぼつかなく、本番に臨まざるを得なかった。
「合唱幻想曲」の元ネタ
「合唱幻想曲」は、16年後の第九交響曲の先駆け的作品として知られる。歌詞も芸術賛歌になっていて、第九と方向性も似通っている。
面白いことに、急いで作曲されたからであろうか、「合唱幻想曲」の主題としては、14年前の、24才の時の歌曲「愛されない人のため息―報われる愛」 WoO118 [2]から後半の喜ばしく歌う旋律が流用された。(youtubeの演奏では3分20秒頃から)
歌曲「愛されない人のため息―報われる愛」 WoO118
テノール:ペーター・シュライアー
ピアノ:アンドラーシュ・シフ
後半の allegretto に入ってからの旋律は、既に第九を連想させる。 「合唱幻想曲」では、これにオーケストラと独唱、合唱まで入るので、さらにその感が強くなる。24才の時の歌曲から54才の時の第九交響曲まで、約30年間の長く遠い足跡を垣間見る思いがする。
余話
「良いものも多すぎると良くない」などと評された12月22日のコンサートがトラブル続きだったことは、当日の証言者達が一致して述べていることだが、最も大きなトラブルはベートーヴェン自身が引き起こしたものだった。
最後の「合唱幻想曲」で、リハーサルの時の打ち合わせでは「第2変奏の繰り返しはしない」だったが、演奏が始まるとベートーヴェンはピアノ演奏に没入して第2変奏の繰り返しを始め、オーケストラは第3変奏に入ってしまった。 初見に近い演奏をしている演奏家達は気づくのが遅れ、オーケストラが混乱して、コンサートマスターがオーケストラを止めた。
「最初から」の声にヴァイオリニストのアントニン・ヴラニツキー[4]が「リピートはありで?」と確かめ、演奏が再開してからは、スムーズに終わったそうである。
協奏曲ピアニストとしての最後
ベートーヴェンは最初、トラブルはオーケストラのせいで起こったと思っていて怒っていたが、自らの間違いで「楽員達に恥をかかせた」ことを理解すると、真摯に謝罪し、後にも自ら話題にして、「私の失敗だった」と話していたそうである。 潔しである。
しかしこの日以降、ベートーヴェンがオーケストラと共演することはなかったと言われる。
ピアニストとして、ほんとうに最後の舞台となったのは 1814年4月、既に難聴が相当に進行していたベートーヴェンは、ピアノ三重奏曲 「大公」[5]全曲を演奏した。
参考
- ^1808年12月22日のコンサート(Wiki)
- ^歌曲「愛されない人のため息―報われる愛」 WoO118 (Wiki・英語)
- ^ 1808年ベートーヴェンの肖像画(ベートーヴェンハウス・ボン) 「複製」と表示されている。あまり知られていない作品だが,オリジナルはプロの画家の作品
- ^ ヴラニツキー(wiki) ロヴコヴィッツ邸のオーケストラの楽長を長年勤めた。このころにはウィーン帝室管弦楽団の指揮者も兼任。
- ^ ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調』作品97『大公 (wiki) (youtube)